会場風景

2001年10月20日〜12月2日


私のコンセプチュアル絵画(抜粋)

─メディアはメッセージである─と云ったマクルーハンに共感していた作家活動に疑問を抱いた私は、制作のための素材がたとえ使い古されたものでも、それを使って現在を表現できるはずだと確信し、それまでの表現活動の体験の全てを入れたタブローを創り始めた。(中略)
 制作方法は従来の絵画のそれと変わらないが、私の制作の仕方の特長は、絵の表面への意識の違いにある。それは私の考える画面が無数のマチエールで出来たレンズを持っていることである。それら一つ一つは独自の色、形、マチエールを持ち各自が異なるレンズを持っている。絵を見る人はその画面のレンズを通して、あたかも画面の奥に実在の空間があるかの如くイメージ出来、それらのレンズが、プリズムが光を通す現象と同じく光を透過させ、その奥に各部分独自の像を結ぶ。各像の結束点の画面からの距離の相違が構造としての内容になる。云い換えると、画面上の各々のレンズがつくる映像の結晶作用によって、画面の向う側の世界が構築される。
 絵具のマチエールこそがレンズの性質をつくり、描かれる対象をつくる。マチエールとは単なる肌触りでなく、その組み上げられた構造に光が反射あるいは透過して行われる映像の結晶作用である。
 私の仕事はそれらのレンズを創ったり磨いたりすることであり、その結果、レンズの働きがその画面の描かれるべき対象物、つまり絵のモチーフをつくる。これが私のコンセプチュアル絵画の由縁である。(中略)
 絵画の構造に比べると「写真」は対象物をリアルに写し出すという視覚的記録性を特長としている。写真はレンズの向う側にある対象を、こちら側に引き寄せ印画紙に焼付けるが、印画紙上には映像のみでマチエールはない。それに対し絵画はこちら側にあるイメージを画面というマチエールを持つレンズを使って、あたかも対象が画面の向う側にあるように描くというところが写真と異なる。
 1970年代初めより、映像=見えるものに疑問を提示して来た。その最たるものが写真である。写真は単に見えるものを短絡的に見えることとして、見えるものを理解したと錯覚させる。その疑問と反省の上に立っての現在のタブローの仕事がある。
 私は見えるものより見えないことに関心がある。身近な例でいうと、物の裏側、陰の部分であり、表側や物の表面に比べはるかに広大な世界を持っている。あるいは私の身体の周囲でなく、体内の臓器の働きや質といった眼に見えないことであり、あたかも言葉が自然に起承転結を持つように、私の身体が一つの宇宙を持って完結的に出来ていることと同じである。自然自在に描くことが、眼に見えない私を描くことになると考えた。
 シリーズのテーマである「言語の誕生」とは、云い足すと、「造形言語が誕生する瞬間を描く」という意味である。私が喋る言葉が無意識のうちに完全な言語として構成され、相手に対し言葉を発したと同時に伝わっている、という驚きと不可思議さが、私の絵のテーマとなっている。
 絵画に於いても写真のように画面を瞬時に観渡すことも出来るが、私は絵画をディジタルな面だけでなく、できるだけ時間をかけ、まるで文章を読むが如く、アナログ的に見ていられる魅力や内容を持つ作品をつくろうと努力している。
 画面を観る人の位置や視点によって絵の構造が違って見えると面白い。時間をかけてレンズを磨けば磨くほど、その装置は精妙になることを想像しながら制作して行きたい。
 私が追求する画面の部分の一つ一つはシステムではなく、正にその場所固有のマチエールを持ち、その意味では、その場の固有色を創り上げることで、互いに隣り合う場所との対比が画面全体のバランスと共に重要な要素となる。
 画面の部分相互の相対性は無論のこと、部分独自のマチエールの自立性と堅固さこそが、画面全体の表現の質の強さを高めて行くために必要な条件である。
 マチエールというレンズを磨くことが、私の絵創りの最重要課題となっている。

島州一/SHIMA Kuniichi
20 Oct.─ 2 Dec. 2001


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言語の誕生No.255
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言語の誕生No.244
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